
薔薇の名前〈下〉
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薔薇の名前〈下〉 のカスタマーレビュー 
ある全体
(2009-08-31)
教皇とフランチェスコ会の教義をめぐる対立、会内部での暗闘。さらには皇帝を後ろ盾としたフランチェスコ会は、教皇側と、有数の文書庫で名高い修道院において、会談を持とうとする。フランチェスコ会の使節団の一人として、修道院に到着したパスカヴィルのウィリアムは、そこで一連の殺人事件に出会うことになる。
通常のミステリーならば、読み始めればたちまちのうちに、以上の事情をたやすく察するだろう。だが本書の場合には、読者はその事実を把握するためには、溢れかえる当時の著名人士の名、ヨーロッパ史いや中世教会史上に著名な事件の連呼、列挙される異端の網の目等々、の間を泳ぎまわらなければならない。相当注意して読んでいても、改めて前のページを読み返さざるを得ないことが何度もあった。
一言で言って、大変読みにくい。だが、幹から横に伸びた枝の形は美しい、鋭い。細い枝に咲いた花は香しい。
懺悔とはどのようなものとして感じられるか。修道士にとって、女とは、どのようなものとしてありえたのか。そんなことに触れた個所がある。異端とはどのような形で生じるのか。庶民にとっては、どんな形で異端と出会うことになったのか。異端であるとは当時にあってどのようなことであったか。異端審問とはどんなものであったか。人は弱さにどのように対処したかが、恐怖に支配された時どうなるのかが述べられる。会派が、修道院がどのように相争うかが考察される。
確かに殺人事件は解決される。だが読み終わって感じるのは、一つの修道院の殺人事件の記述が、キリスト教の諸相の複合的な記述に重なっているということである。キリスト教の諸相とは、ヨーロッパの精神そのものであり、目をとめた文章の端々から、(キリスト教的)人間の全体が立ち上がってくる。どのページを開いても、興趣が尽きない本である。
興味のあるなしで分かれる
(2009-05-28)
かなり量のある文章、上巻のみで挫折する人も多いようです。
中世のヨーロッパ、僧院、それを取り巻く景色をイメージできないと
読み進めることは難しいでしょう。
しかし読み終えた後には、中世の世界をのぞいた満足感が得られると思います。
おまえは悪魔だ
(2009-02-14)
いま 考えてみると 本書は インターネットの現代にひきつけて読むと 違った味わいがある。
本書の主人公は言うまでもなく「図書館」である。中世の「図書館」とは 「時代の知性」そのものであり その「知性」をどのように管理すべきなのかが 本書のテーマだと読める。実際 本書で展開される殺人事件の動機は 「情報をどのように管理するか」という極めて現代的な問題と 同じレベルである。
これを現代に置き換えると 「図書館」は「ネット空間」であり「ネット空間における情報」であると読める。ネット時代の情報管理は 巨大な課題であり 現代でも 十分 殺人事件の動機になりえる。僕らには見えないが そんな事件も起こっているに違いない。
殺人事件の犯人は 神の為、神に代わって 情報を管理することに命を賭けた。そんな犯人を 探偵は「おまえは悪魔だ」と喝破する。この場面が 本書の白眉だが その「悪魔」は いま この瞬間 21世紀の現代にも生きている。そう読むと 本書も なかなか恐ろしい。
記号と記号とのあいだの関係性
(2009-02-09)
「それを決める明確な基準はない」
「なしうる最大のことは、もっとよく見つめることだ」
「わたしたちの精神が想像する秩序・・・手に入れたあとでは、梯子は投げ棄てなければいけない。
なぜなら、役には立ったものの、それが無意味であったことを発見するからだ。
・・・昇りきった梯子は、すぐに棄てなければいけない」
「見せかけの秩序を追いながら、
本来ならばこの宇宙に秩序など存在しないと思い知るべきであった」
「可能性を全面的に織りこんだ必然的存在・・・
神の絶対的全能とその選択の絶対的自由とを肯定するのは、神が存在しないことを証明するのに等しい」
「過ギニシ薔薇(=神)ハタダ名前ノミ、虚シキソノ名ガ今ニ残レリ」
薔薇の名前とは
(2008-04-29)
エーコが見事に展開するこの作品で言いたい事は世界というのはとある規則と法則によって成立しておりその鍵が分かれば解けない物は無い。しかし世界という物を既に出来上がった物として認識する多くの人間はいつの時代も無知で愚かである。人間にはいまだ分からない事も「事項と事項を比較」する事は学問の始まりであり、いつかは法則が分かる日が来るかもしれない。世界や他人は衆人には謎に満ちている。比較探求の旅は人間の命題である。しかし、比較する事とは差別する事では無いし区別する事でもない、そこに上下、左右などは無い。善悪の基準を決める物でも無い。無限とも見える有限の空間の中で観念という漠然とした意味と意味を手繰りよせ恣意を介さず真意を紡ぎだす。恣意は傲慢と混沌をもたらす。ウィリアムを動かす衝動と過ちがこれに含まれよう。中世キリスト教世界の異端だ、正統だと時に私利私欲が混じり互いに争う者や知識の独占を望む愚か者達の愚昧さと事物を推論し見極めるという推理小説の形態で作り上げられた本作は実に巧みだ。ウィリアムは言う「問題はキリストが清貧であったかどうかでは無い。教会が清貧であるかどうかであり、清貧とは俗世の事物に法を定める権利を保持するか放棄するかを意味する」。ウィリアムに対する妄信者ホルヘの考え方にも一理ある。両者とも善行を望むという意味では同じだ。しかしウィリアムは「真の愛とは愛される者の喜びを願うものだ」と言い、こういう、知の為の知の追及で無い、欲望無き知の探求を進めるベーコンを尊敬し、ただの迷える子羊から羽ばたこうとする様な人間個人の尊厳を秘かに謳う様な先進的な人物であり、ホルヘの妄執とは対照的である。しかし知識の探求は間違った記号を紡ぎ合わせても偶然にも同じ結果をもたらす事もある。必然的結果を求める事自体が傲慢なのである。「人を愛する者の務めは真理を笑わせる事によって真理が笑う様にさせる事であろう。真理に対する不健全な情熱から私達を自由にさせる方法を学ぶ事こそ唯一の真理である」とウィリアムは自嘲する。そしてアドソはその象徴たる神の全能とは?という所に至るのである。最終的に偶然と必然の論議から神の存在の有無まで考察し人間と世界の在り方を問いかける本作は実に多くの物を含んでいる。7日間で両極を体験したアドソは晩年に至り何を思うのだろう。薔薇の名前とは何であろう?人によって全く違う答えであり、かつ同じ答えとなる物であろう。両極の間で揺れ動く記号という名の意味を糧に人それぞれの真理を花開いた愛憎の象徴である薔薇の美しさである。私の言う意味はそれが何かは本作を読み終えた人には分かるだろう。
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